2013年3月13日水曜日

歴史的切断あるいは接続


正直良くまとまらないけど

「歴史の上でしか価値判断できないから、どんなふうに歴史とつながってるかって大事」

ってはなし。

  • 論文じゃないんでサイテーションとか適当で。
  • あとからなんかしら追記していきたい。




建築史の中でモダニズムは特別な存在だ。

様式の一つとして列挙されることもあるが、
古典、新古典、ロココ、バロックなどとモダニズムは一線を画している、、、
ような気がする。

なぜか?

建築を評価する時に私はモダニズム以降でどう位置づけられるかということを
それ以前の建築とは少し分けて考えていた。
しかし、そもそもそのモダニズム自体がそもそも何?という曖昧模糊とした存在でもある。

建築史においてモダニズムが特別に位置づけられるということを、
やや暴力的な歴史の大局を述べることから考えてみたい。


西欧の建築史をみてみると、その発展がスパイラル型あるいは振り子のように振れながらも元の場所には戻らず展開していると見ることができる。

ルネサンスや古典主義、新古典主義のような返るべき原点を求める動きと、
ゴシックやバロックなどの発散していこうとする方向で、行ったり来たりしながらも漸進していくのが欧州建築だった。



さて、一方でユーラシア大陸の東の果て日本という島では建築は流入してくるものだった。
原研哉が『デザインのデザイン』に掲載していた「世界地図を90°回転すると文化の滝の滝壺に日本がある」(パチンコか何かに例えていた?)という地図が示唆的だ。

日本の建築においては返るべき原点を探る運動は大きなムーブメントにはならず、
その時代の先進国(しばしばそれは中国大陸の王朝)から輸入した何かを受容し咀嚼して和様化するプロセスを繰り返していた。
シルクロードの東の端で世界を渡ってきた建築の技術や美学が受け入れられた様子は伊東忠太のエンタシスに関する論考の示すところである。


ここに大きな変化が静かに訪れる。

そもそもの始まりはシカゴ万博でF.L.ライトが日本館を見たことに端を発する。

この日本好きの建築家は浮世絵のコレクターでもあり、
パースの構図に浮世絵を援用してみたりとその仕事にも日本の影響が隠し切れない。

本人は必ずしも自らの設計に日本的なるものを見せたいと思っていたわけではないようだが、
いずれにせよ日本的エッセンスを含んだ建築でライトは評価される。



ライトは評価される、欧州においても。

レイナー・バンハムの『第一機械時代の理論とデザイン』にあるように、
ライトの作品集は欧州ですでに芽生えていたモダニズムの萌芽に触れる。


ここで歴史上始めて建築の歴史が地球を東西に一周することになる。


この時までグレコローマンの古典への回帰か周辺異民族からの影響で
螺旋を描いていた西欧建築に、初めて異なるベクトルのチカラが働くのである。

一見するとアメリカ=非古典へ振れる螺旋の系譜の一つにも見えるが
本質的な違いが、ギリシャ以来の建築が遠回りして潜んでいたことにある。


この歴史のつながり方こそがモダニズムが歴史の特異点となる理由である。
世界を旅した建築の歴史が源流に再び流れ込んだことがモダニズムの本質なのである。


しばしばモダニズムはそれ以前の様式建築と決別したことによって、
歴史において切断線となったかのように記述されるが、
重要なのは切断というより接続である。



そしてとても嫌なことに気づく。
もしモダニズムが歴史のつながり方において特別であることで特異点たりうるなら、
我々はどれだけ奇をてらってもそれを超克することはできない。

モダニズム以後の世界は世界を建築史が東西方向に一周したという出来事のもつ特殊性を越えることはできず、
モダニズム以前以後というパラダイムの中で回収されていく。

ポスト・モダニズムも所詮は世界一周後の中にあり、
それゆえモダニズムを越えることはできずに収束していった。


しかしなぜ歴史の接続の仕方がそれほどまでに支配的なのか?
我々の価値判断が建築の歴史を背景にしているから?
そういうことを考えていくとなにか出てくるかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿